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A.part 1st exhibition [frame] @ロジガレモノコト レポート、レビュー

2017年6月12日

A.part 1st exhibition [frame]@ロジガレモノコト~路地裏のギャラリー~

 

[date] 2017.4.25(tue) – 30(sun)

[open] 12:00-20:00 ※最終日のみ12:00-17:00

[free] 入場無料

[place] 大須「ロジガレモノコト」名古屋市中区大須2-13-17

[artists] Roy von yotuya, 深谷是日人,Jackpacker, 皐, Ayu, 細井章世

[sponsorship] A.part 
 art + part = A.part -アパート- それぞれのアートの集合体。

 

 

-art exhibition- -今回のテーマは「frame(フレーム)」-

A.partの窓から見えた景色を切り取り、一人一人の世界で描く。

見えたものもその魅せ方も、千差万別。

窓の先に広がる、それぞれの世界をご高覧ください。

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以下、レポート レビュー

*******

 

Ryo von yotuya 801「君の切り取り線」(1F 右側の壁 )

「日常で起こりうる、
あってもおかしくない違和感を一連の死生観として表現しました」

 

構成としては、
会場の扉から最初の作品1から最後の壁の作品8まで、
生と死の2組を対にさせ中央で区切り4枚ずつ分割して並べて、
一連の8作品で死生観を表現しています。
最初からの4枚目までは木にプリントして生をイメージし、
5枚目から最後までは和紙にプリントして死をイメージしました。
それぞれ日常での場面を切り取り一枚ずつ表現しています。
最初の作品1から生が始まり 作品番号が進むにつれて、コントラストが徐々に暗くなります。

 

作品2「都会田舎少女」は、
一見、背景を都会のように演出させて展示させていますが、
二重構造で、
実は背景を田舎にして都会にいるような姿でレイヤーを重ねていきました。

暗転させ、 都会へのあこがれを虚無感で覆っていく表現しています。

 

作品6「泡沫」は、
バスタブに浸かっている女性に見せていますが、
突然、誰もが入浴中に起こるかもしれない水死を暗喩しました。
特に水面下から出る泡沫をレイヤーで重ねました。

 

作品7「わがままな愛」は、死への「あこがれ」を表現しました。
写っているカップルは、わがままな愛を共有しています。 女性の方は、いつでも男性の運命を選ぶことができ、 男性の首にロープがかかっていますが、
実は、結果として仕掛が作動せず首を括れず死ねない設定になっています。

 

そして、作品8ラストの「終わりの瞳」と続いていき、
終わりである死を意味しています。

 

*******

 

作品それぞれに引っ掻き傷、歪み、ヒビなど多様な編集で加工がされている。
感性で緻密に、理性でザクザクという印象を受けた。
印刷が木と和紙なので写真というよりも平面と立体の中間でもある。


どこまでの範囲を加工の領域として止めておくかの引き算に、
最もセンスが問われるポイントがある。

 

実物を観ない限りそれぞれが含む雰囲気を正確に伝えられない場合がたまにある。 直視でないと質感を含み誤って持つ場合があるからだ。

 

今作では死生観が主題として扱われているが、
そもそも題材定義として特定である誰かの死の存在や記憶を介するものが無い。
そのため死に対する念慮とする激しさや強い圧力はもともと発生することがない。
情念は終始、落差がなく淡々とストーリーとして平行していくように感じた。

 

逆に生への鮮明な生々しさが映えていたので、率直には死生観の死は感じなかった。
演出として死は生を強く前面に押し出させ艶めかしく演出させていたように思う。

 

つまり演出として生を引き立てるために死は、
終始日常で起こりうるかもしれない背景状況に設定され、
モチーフとしては死に向かっていくが、
特定の存在に直結されていないため、
展開していく物語と進行状況の背景としてのコントラストだけが変化して、
黒く暗くなっていったと思ったからだ。
病んでいるような行動の含みはあるが、精神の死そのものに向かわず直結されていない。

 

ストーリーでの進行から徐々に死への状況場面を提示しているものの、
逆に希死念慮は生ききるための欲求にすり替えられているように思った。
そのため、
生と対比させた死へのあこがれをストーリーの背景に
設定させたものとして眺めた。

 

各場面で、実は異なる心情を持っていることへの曖昧さ、
または、コミュニティ、他者、自身に対する同調や共通への違和感に覆われているように受け取れた。

 

それらは日常で起きてしまうかもしれない「だまし絵」の表現になる。
虚と実の二つの世界を結ぶ変換転送としての表現でもあると思う。

 

そのため、背景設定は死生観かも知れないが、全体構図は死生観よりも虚構である印象を受けた。

 

連作を眺めていて思ったことは、
かつて自分の過去では内在していた雰囲気を感じるが現在はほとんど持っていない。
もしくは必要性がなくなり忘れてしまったものである。
それを思い出したかのような錯覚を感じた。

 

特有の時期に求めてしまいがちな感覚の一種でもあるように思う。
たまに、息をするのも面倒になりがちな心的な抒情でもある。

 

なぜ生まれたか探してもわからなさだけが露出して迷う場合が多く、
逆に、その執着から離れることで剥がれ、その問いが不要になっていくこと気分が軽くなる。

 

このような感覚は創作できる時期に作っておかないと、再現できない。
のちのち作っても借り物や空っぽなモノになってしまい、
脆さの特性として捉えることができる時分でしか作れないものであるからだ。

 

日常で起こりうる心情を虚構として、
生活のやりとりの不協調さや違和感を事故としての起こりうる事故や場面の二重構造として接続させてしまう。
突然、切り取られる現実と非現実の隣り合わせの虚構錯覚である。

 

そして、虚構装置を発動させているのは、
コミュニティでもなく、他人でもなく、自分自身に他ならないからだ。

 

そう気づくと浮世の垢のように浮かび上がる負の気配は、
嗜好品の一つとして、
自身の中に適切に取り入れることで免疫として働いてしまうようになる。

 

死生の中間には、現実と虚構がある。
ただそれだけで、多くの場合で問題は自身がどのように受け取るかである。
なぜなら空間や世界は、自分自身では成立できないからである。
そのように捉えると興味深かった。

 

写真小説あるので、見かけた方はぜひ手に取ってみてください。

 

(written by m/k)

 

*******

 

1F 正面壁 jackpacker  777 「咲 part. I」

「僕の制作が自由なのだから、受け取り手の解釈も自由でいいのだと思った。
だから、観てくれた人に感覚をすべて委ねている。
 でも、すこし間を空けて作品の含みを味わうと、より楽しめるんじゃないかな。」

 

展示作品「咲 part. I」では、ブリコラージュされた立体作品が6点と、
今回の展示で、唯一ドローイングが描かれている。

 

全体を眺めたとき「花」の華やかさに最も目を奪われた。

 

特に、花びらの端々に引きつけられるものがある。
先端の荒々しい黒さ、その間の焼け焦げた色、元々の紙の色が印象的だったからだ。

 

荒々しい花びらの焦げ目のだけではなく、
「花びらになる」ために燃えて消失してしまった空間の方も気になってしまった。

 

焦げ目の先端の荒々しさとは対照的に、
素材からして薄い紙は、花を形成するのに扱いが難しいように思った。

 

一枚一枚とても緻密で繊細に巻かれており、
葉の部分にあたる部分は、折ったり、よれたり、または尖らせてもいる。

 

ある意味、能面を連想させられた。
一つ同じものに、ちょっとした面の角度で、全く異なる別の
喜びや哀しみを表現していると思ったからだ。


みる人にとって、どのようにも捉えさせられてしまう多面的な感情を、見事な質感で表していると感じたからでもある。

 

花でありながら、真新しい物質で未だ名前がなく、
それと同時に、
別に名前を付ける必要もないのかもしれないないと思った。

 

「花」以外の作品では、

 

1、写真では、
時計やアシンメトリーの色合いから、
「なにがいまなんじにだれがどこ?」と 思わせるような不思議な立体で、
時間の流れがあるのか止まっているのか解らないようにも受け取れる。

 

2 、世界地図は、
jackpackerの脳内から地球を出力し視覚化させたものかもしれない。
大陸の黒とは対照的に、実際に移動してきた経路は赤い血管にも感じる。

 

3 、「777」は、
ある日から数えて、 7カ月と77後日生まれという、幸運を示唆しているらしい。

 

4、 電球マークのブリコラージュは 、
燃料が部分が錠前2つかと思っていたら、開いてあるZIPPOだった。
自分の視力と勘の悪さも相まって、運よく一瞬だまし絵になった。

 

5 、銃があった。ずっしりと重かった。
どうやら旅行している最中、闇ルートで仕入れたらしい。
モデルガンと言っているが実弾が込められているらしい。
どうやって税関を通れたか、その理由も闇ルートらしい。
銃刀法違反になるから、一切合財、ここだけの話らしい。
jackpackerにこの話がばれるとバラされちまうらしい。

 

とりあえず自分が生まれたときから死人で本当によかった。

 

話を伺っているとき、
「人が輝いているのは没頭しているとき」とも語っていた。
壁に描かれたものを、
ドローイングととるか、単なる落書きととるか、無意識の現れととるか、
受け取り方は十人十色だと思う。

 

個人的には、素直に楽しいなあとウキウキした。
自然と勝手に意思に関係なく、
あらゆるものを選択して趣向が反映された集まりのように眺めた。
その没頭感に引き込まれたせいか独特の雰囲気がある

 

ブリコラージュされた立体作品と壁にアルファベットが書かれていた。
それらは目を閉じてバラ撒いたけど、
感性で適材適所に配置されていた感触に想えた。

 

10代の頃から世界中を旅してきたjackpackerは
旅人としてのPassengerから、表現者としてのMessengerになっていた。

 

作家本人が旅人でもあるからか、
開放的で気取らない視野を拡張しているスタンスを感じた。

 

展示会場全体の雰囲気が、
寛げて一息つけるような開けた場になっていたのはそのせいかもしれない。


それでいながら奇妙だが、

開放感とは真逆に、 双極である閉じた印象も合わせもっていた。
もしかしたらbackpackerから感じる特有の一面性の表れかもしれない。

 

旅先で人と接する、もしくは遭遇する状況、
それは時に、 危険と隣り合わせにもなりうるから、
瞬時に切り替えが必要であるかのように。
そっと裏表がない性格に内包されているのかもしれない。

 

初見、全体的にフラットに継続している空間に想えたが、
作品の持つバランスが、観ようによって心的に印象がどう傾くかは、
受け手側に委ねているせいかもかもしれない。

 

物体どうしを結合させる感性が豊かで、
均衡のとれた場所を適切に選び、アイデア届いた瞬間に結ぶように落としていく。

 

傍受するように反応したモノを応答しているようにも思える。
展示作品全体でも個別でも、
展示されている作品の本質がそれなのかもしれない。
それで、空間がユニークでワイドに広がっていると、ついつい思った。

 

jackpackerという蓋を開けさせられた心地さがある。

 

すべて観終わった直後、
傷が治ってカサブタが取れたら傷痕になっていた、そんな気分になった。

 

たまに訪れる、ちょっと眠れなくて、しんどかったりする夜は、
これから彼の作品を思い出そうと思う。
そうしたら安眠できそうだ。


包容力のあるギフトが存在していたように感じる。

 

そして、また新しく創るものを観に行って体験し、
会ってみたいと思わせる節がある。
人を集めるのが上手い人もいるが、むしろ勝手に人が集まってしまう人もいる。
後者の人だと思った。

 

後日、ふとした時に展示作品を思い出すと、
普段の日常生活も総べてひっくるめて、
「日々は駆け抜ける旅」と改めて気づかされた。
あらゆる路上の、あらゆる場所に通じている生き方なのかもしれない。

 

そして、これら上記の記載は自分が書いたものではなく、
jackpackerから受けた雰囲気で、
ついつい書かかされてしまったもののようにも想える。

(interview , written by m/k)

 

*******

 

階段をのぼり2階へ


*******

 

Ayu 114「届かなかった 届けなかった」(2F 階段脇 )

「言葉のはきだめを作ろうと思った。頭の中では浮び喉まで出かかったけど、声にはならなかった気持ちを形にしていきたかった」

 

話を伺ったとき

 

日常で自分が使うのは言葉。でも、相手に届くのは気持ち。
結局、言葉は手段でしかない。

 

その場やその時の状況で、本心ではない言葉が生まれてしまう。
本当は伝えたかったのに言えなかった気持ちを展示作品として表現したかった。

 

「漢字・カタカナ・ひらがな」は、ただの線でしかない。
でも、線が交わることで意味になる。

 

文字で意味がわかるからこそ、伝えられなかった言葉を悲痛な叫びを吐き出したかった。
でも、作品として立体化させたら文字は線や記号として無機質な物質になっていました。

 

隣り合わせに、表裏一体に虚実へとつながった感覚が残りました。
だから、創作して展示したけれど、
「届かなかった 届けなかった」という題名にしました。

 

*******

 

感想

 

黒い紐で四隅を括り枠にしてその内側に作品を展示している。
プラスチックと金属で、
いろんな言葉が宙ぶらりと適度な間隔を置いて展示されている。

 

気になったことが幾つもあったので、 立ち止まり挙動不審を構わず前後左右と、
幾つかの高さと位置からしばらく眺めていた。

 

作者本人が心の中では想ったけれど、
伝えられなかった感情が空間に浮かんでいるものだとして、
自分の気持ちを抜かしてすり替えるように眺めた。 そうしていくと異なる印象が徐々に浮かんできた。

 

展示物は透明と黒字のモノクロ、あるいは、輪郭だけ居抜いて文字を縁取っている。
少しだけ寄りそうような言葉が混じっているが、ほとんど大半がネガティブな言葉である。
負の言葉ばかりが目立つから一見とっつきにくい感触がある。
素通りするとストレートに取られてしまいがちであるが、どうやらそうではない。

 

みる人も作った本人さえも突き放したような気配があるけど、
展示されている文字自体が疑問や否定や消極的な意味合いなだけで差別ではなく、
それは、どこか分別や区別という印象を受けた。
他人と自分という区別。または、自身の中での自分という区別。

 

括られた黒糸の範囲内を境界線として展示されているから、
「むねのうち」もしくは「はらのうち」という作者の本心にすり替わって想えてきた。

 

日常の中で、気持ちのどこかに残ってしまっている感情があって、
出力したら、どうしても平面ではなくて立体作品になったのではないかと感じた。

 

それと、言葉一つずつ個別で成り立っているけど全体で一個の様相に思えてきた。
結局、気になったのは単体ではなくぶら下がった立体展示もの総てだった。

 

展示されている作品の文字には、普段使う日本語で、敢えてか外来語ではない。
すべて発音文字ではなく表意文字である。

 

気持ちを表すとき最も心情に近い言葉に置き換えていく。
声で伝えるときは発音になり、記載するときは記号としての情報を持つ。
発音は組み合わせ、文字は線を引くだけで意味が形成されていく。

 

普段は、話したり書いたりする言葉を意識して気にしない。
でも、今回はそこに焦点をあてられ想起させられてしまった節がある。
Ayuさんは単独の文字や言葉を使ってアクセサリーも作っている。

 

象形文字は物質から非物質の記号としての文字へと意味だけを残して消失したはずなのに、
制作物としては材質からしても無機質なのに妙な感じで生体的な気配がある。

 

言葉の意味を再結合させ立体として物体化しているように想えた。
制作した本人は「無機質なものになってしまった」というけれど、
作っていく段階で表現として、
届けなかった気持ちを伝えることに変える工程があったから、

無機質なものではなく生身のものと受け取ってしまった。

 

材質からして脆い危うげな含みはあるが、それらは嫌な苦手なものではなく、
じめっと陰気な感じはしておらず、
逆に乾いてスッキリしていたから、単純にいいなと思った。

 

意思疎通のために、話したり書いたりあらゆる表現の伝達手段を使う。
本当は誰もが本音で話したい。
何も覆い隠さず心に想ったことを直接伝えたい。  その方が楽だし本心だから偽りがない。

 

でも、相手との関係性、伝達の具合、立場や環境で自分の思うようにはならない。
適切な言葉が見つからなかったり、 言葉を思い出せななかったり上手く伝えられないことが多々ある。
あちこち引っ掛かりを残しながら進み、
簡潔なコミュニケーションに至らない場合がほとんどだ。

 

変に遠慮したり、ブレーキをかけたり、別の多面として伝わってしまう時もある。
直接、言いたいことを言い合えば、 一方的に正しいと思う差異や、
ちょっとした勘違いに直ぐぶつかってしまう。

 

物事を円滑に進めて関係性を無難に過ごすために、
自分と他人との境界線を勝手に決めて自身の区域を作っているのかもしれない。

 

だから、差異があることを日常で普通と思っている。
そして、凡て伝わらないことが前提を意識もせず、またコミュニケートし始めている。

 

そんなとき本心は自分のいつも知らないどこかに残る。
自分に正直であったかわからなく意識も気にしない場合がいつもほとんどで、
どこかで本心を言わないと偽りのままで、
内側でなにか自分自身ではない違和感が溝のようなものに残る場合がある。

 

自分を調整して共通化させコミュニケートする際に都合上では本心ではない含みを自分に持たてしまうから、
時どき虚無感に陥り無機質になってしまうこともある。

 

どこか演じながら騙して日常を過ごしている。
本来の自分ではない別の誰かを演じて過ごしている。

 

コミュニケートするその時どきで最前は尽くしたいけど、総て伝えることはできない。
過去に執着したくない。
現在のいい状態をただ継続したいから、あとで伝えたかったと後悔したくもない。
時間をかけて距離も推し量ればコミュニケーションは破綻しないし、それをやり続けるしかない。

 

その程度を推し量りながら思案すると、
自分以外の他者と相対する関係性ではなく、自身との関係性かもしれない。
つまり、単純に身の丈の自分自身で居られたかどうか、やりたいようにやれたかどうか。

 

本当のことなんか自分しか知らないし、自分さえ知らない場合もある。
何かをやる度に受け取り方もさまざま異なる。
全ての気持は伝わらない、でも、少しでも近づきたいと試みる気持ちだけはいつもある。

 

できれば、その場でできるだけ伝えたらいいと想う。
でも、それができなかった場合には別のカタチで表現してみる。
そういうことを提示された感じがする。

 

いずれにせよ、自身を表現した時に、本心を現せることができたかどうかが重要だと気づかされた。

 

ロジガレの内装自体が黒と白のモノクロなので、展示した言葉が浮き立ち、
受けた印象から想いを巡らせると「鋭く強くて儚い」ものが漂っていた。
そんな気配が展示されていた。

 

(written by m/k)

*******

 

深谷是日人 B2(2F中間の壁) 走り書き版

 

たま~に天気が曇るように、
うかうかしていると心も曇っちゃったりします。

 

実際この写真を観ている時に、

本当にメガネが汚れて曇っていることに気づきレンズを拭いてたんですよ。

 

ぼんやりとした裸眼の視界の端に、

数秒前まで眺めていた写真がぼんやりと映り込み、

むむむ?と首を傾げながら

裸眼のまま先ほどより見入ってしまったんですね。

 

そうこうしているうちに、

これまた、

「ふわっ」とした奇妙な浮遊するムードを浴びたわけで、

ぐるっと一周回って
(ぐるっと回った場所は特定できません、空間か身体でしょうが…)

なぜか別の写真に観えしまったんですよ。

そう見え方がすり替わったら

 

何もかも、 全く理解はしていませんでしたが、

無意識に思わず「おおっ」と小声で唸ってましたね。
画像のとおり四枚とも、抽象的な風合いのある写真です。

なんだろうなあ、と、ぼんやりしていたら、

 

本人から「女性を加工しているんです」とのことで、

ああ、そうなのかあ、と

腑に落ちた瞬間、 次の一言でびっくり驚嘆

「その理由は」 ぜひぜひ現場で伺ってください。

 

眼底脱臼なんて言葉はありませんが、

そんなマイルドな症状が個人的に起こりましたので。

 

*******

 

細井章世 203「middle voice」2F 奥の正面 右側) 



眼差しだけ写している対象に心が寄り添っている気がするから』

 

展示のタイトルにした「middle voice」は、
「歌い出す瞬間の声で、  絞り出したような掠れた質感をモチーフにしました」



展示写真の左右両端からPHOTO BOOKを2冊吊しています。

どちらが、明るいとか暗いとかではなく2冊の中で混合させ
「明暗」を構成しました。

一冊は「flag」がシンボルです。たくましくて力強い自由の打破していくような「道標」なんです。
もう一冊「soles」靴のソールがシンボルです。
soleは、他にいろんな意味含みますが、あえて複数形のsolesにしました。


靴って他の誰にも履かれたくない「自分だけの、絶対的な領域」
だからsolesはアイデンティティなんです。

 

*******

 

光。
展示作品を観ればこの一言に尽きる。


吸い込まれるように一目瞭然なので、
言葉にするのが無粋と思ってしまうほどだった。


どの写真も光の加減が均一ではなくて、それぞれの写真ごとに、ふさわしい。
と、いう印象を正直かなり受けました。


天井からライトが展示作品の中央へと照らされていたので、
さらに、
作品の印象が浮き立っていました。


ライトがあったっている場所の有無に関わらず、
「ふわっと」広がる雰囲気が

伸びて和やかになったように感じました。


両端から吊るしてあるPHOTO BOOK2冊とも、
光と影の陰影を、
あえて混在させていたそうで、
見ていてとてもやさしい気持ちになりました。


光が印象的だった分、
下側左端に展示されていた影の存在も印象的で、
それぞれの時間帯に撮影した影が光を引き立ているのでは、と想いました。

 

写真の構成を、 単純に「色彩、光、構図」と3つに分けると、
個人的に、他がどうとかではなく、
すごく光に特化していると想いました。


ある意味、
外の世界を覗くのも自分のこころの一部だし、
自分の内面を覗くのも同じく自分のこころの一部のはずなのに、
外の世界はパッと見ればわかるけど、
自分のことは正直、時どきわからなくなる。


でも、展示されている写真の光は、
どれもこれも心的な空間を
まっすぐ可視化されているように感じました。


そういう光を眺めたやわらかい気持ちになりました。

 

細井さんに話を伺っているとき、
「眼差しだけ写している対象に心が寄り添っている気がするから…」 という言葉が印象的でした。


それで「眼差し」が自然と光を求めてゆくのでは、と感じました。

 

キリがないくらい「みる」という意味の言葉がたくさんある。
たとえば、見る、観る、眺めるとか。
どれも一方通行な気がしてしまう。


もしかしたら、

撮りたいものがあるから撮るのではなくて、
相手や対象物を撮りたいという気持ち自体を撮っていて、
そういう気持ちでファインダーを覗きこんでいるのかもしれない。


それで、

撮影している本人自身の気持ちに返っているのではないかと想った。
そんな風に、「眼差し」という視線の先にある気持ちに、 しっかり向かいあっている。


作品全体をじっくり眺めていると、

「光」が良質なポップ感に映えて溢れている。


そんな印象をつよく感じました。
(written by 細井章世, m/k)

 

*******

 

皐 221B「窓(2F 左の壁) 


『見る人に捉えかたを委ねてるので、綺麗と感じてもらえると嬉しい』

 

別に男女とか性別とか関係なく、 綺麗なものを見るのが好きだから、
ぱっと見は、
楽しそうに遊んでいる綺麗な女の子が戯れている風景と思わせたかったんです。


あえて表現として、女の子ふたりにしました。

その方が、含みがありますし、
目に見えるものだけを、すべて信じられるわけじゃないですから。

 

写っているのは女の子2人と4種類の花ですけど、
実は、4つの花を、
2組ずつ「花言葉」を[擬人化」して表現しています

1組の恋をしているカップルの花言葉は「移り気」と「一途」です。


「移り気」な青い花のデルフィニウムが
「一途」なピンクの花のグラジオラスを好きになって恋をして、
一見、楽しそうな風景に見えていますが、

選ばれた方の「一途」は「移り気」を想っているのに、
「移り気」は、他の子とも遊びたがっていて、


すでに次の子を見つけて気持ちが浮いてるんです。
「運命の赤い糸」のシンボルとして
「一途」は、ちゃんと左の小指に赤いテープを巻いるのに、
「移り気」の指には糸は一応付けているけど他の指…


「あなたは私の中ではもう一番ではないの」

 

もう「移り気」の小指は次に向かっていて…

白いウェディングドレスではなく、
「何かを隠す」こともできる薄いベールと
「運命の赤い糸」としての赤いテープに、焦点をあてました。


赤いテープも、視線も、気持ちさえ、

見えるものも見えないものも、
隠そうと思えば、どうにでもなりますから。

 

窓である観音開きの写真を中央上に配置しました。
それまでは、ただの扉だったのに、
開けることで、 突然、違う世界がひらけます。


一見、戸惑ってしまう感覚を、

あえて隠して、
開ける人自身が覗いて欲しいと思いました。


展示作品の中では、扉を開けた写真のふたりが、

いちばん寄り添っていて、
その「綺麗」さを、ぜひ見て感じて欲しいです。
それで「窓」なんです。


もう1組の方 ニゲラとカスミソウの花言葉や意味合いは、

「夢の中の恋」がテーマですが、
ストーリーはご想像にお任せします。

 

*******

 

うっとりと、みとれてしまった。
同時に、
しっちゃかめっちゃか爽快な豪快さで、

ついつい気分よくなってしまい、
なにか不思議な感覚が脳裏をピューッと駆け抜けていった。


6点の展示作品観たとき、

中央上に位置していた「窓」が半開きになっていた。
扉を開けると、観音開きの窓の内側にさらに2点の写真があった。


「見て」と言われると、なんだか興味がわかない。
でも、「見ないで」と言われたり、
半開き状態だと、どうしても中身が気になってしまう。
心理的に、ついつい覗かされてしまった。
そういう感覚で、作品に参加させられた仕掛が面白いと思った。

 

皐さんにお話を伺ったときに、
ストーリーと写真とのマッチングがとても興味深かったから、
再度、作品全体を眺めると、 ニュアンスが変わって見えた。
まだまだ、たくさん含みが隠されているようで、
見てる側を簡単に完結させず、 あきさせない曖昧さが魅力的だった。


眺めていると、ニンフェット・トラジコメディという単語が、ぽんと思い浮かんだ。


いたずらを誘惑してしまう悲喜劇。

もしくは、綺麗なものへの「あこがれ」を具現化したようなもの。


それは観音開きでの中央の写真が、

寄り添うふたりの距離感が、
最も近いのに、お互いに何を想っているかはわからない。
まるで、本当のことも嘘のことも、
口を閉ざしてしまうと意思が伝わらないような感覚に近い。

 

帰り際に、
展示会場のロジガレに近い大須観音を通り抜けたとき、
そういえば、
観音様には性別がないことを思いだした。
性別がどうこうよりも、 綺麗と思うものは素直に綺麗と思いたいと想った。


人それぞれ違うと思うけど、綺麗という基準に改めておもいを巡らせた。

個々の答えは、正直よくわからない。
でも、あるとしたら、
その人にとって「必要なもの」が「綺麗なもの」かもしれない。


展示された白い壁に、

2組の花と具現化した花のふたりが色彩印象的だった。


それだけでなく、白と緑の配色写真も印象深く映えていた


(written by 皐, m/k)

 

*******

 

個々それぞれ、表現もさまざまだけど、

すべて、初見なのに
不思議なほど、ゆったりと開放的に居やすい空間でした。


同時にワクワクするような躍動も感じたので、

正直、

またA.partの展示会に行きたいなと思いました。

 

ちょっと、おかしな話ですが、

展示して在るものは総て固体なんですが、

流動性があって液体のようでもあって、気体のような心地よい感覚がありました。


なので、

幅広い年齢層に足を運んでもらいたいなあ、と

個人的に思いました。

 

偶然空いた時間でヒョイと訪れたので、もっと長く居たかったです。

 

フリースタイル(引用、テキストなし)

 

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堅田 残光

堅田 残光

造文作家。 起源は滋賀県堅田町。東/南スラヴとの混血。 獅子座。O型。白痴派。ムダにもち肌。 ご執筆などのご依頼はこちらまでお願いいたします! → cotenpa@gmail.com
堅田 残光

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