1308

河村るみ 「介-生と死のあいだ」 レポート 【海牛目】

図々しくもtwitterから抜け出て投稿してしまいます。

実は内容はほぼ一度TWしたものと同じですが、一発目の投稿はどうしてもこの展示にしたいと思い再録することにしました。

名古屋市美術館の地下で常設企画として行われている河村さんの展示に二度訪れたので、会期は26日までとあと三日間ですがレポートします。

一度目に観た際にはパフォーマンスに時間が合わず、映像、絵画などのみであった。
まずはその際の印象からまとめる。

入口正面の壁には映像が投影されている。左端にイスに座った河村が手を伸ばしてじっと動かない様子が映される。左端の方にイスが置かれているのに気づくが、人物が投影されている位置からずれているのが気になった。
(この理由は、パフォーマンスを観に再度訪れてやっと理解できた。)

左手の壁は、奥にキャンバスに描かれた絵画がかけられている。遠目からはかすれた線による縦縞模様に見えたが、
近づいてみるとその線は、作家と母親の会話を書き連ねたものだった。
文字はしゃべりのみで、縦書きの文字間隔が詰まっている。
その密度がそのまま母と娘の会話の濃密さにつながるようだ。

いや、会話自体は病状をうかがわせる重たい部分もあるが、大半はたわいのないやり取りである。
だがそのたわいのない会話が切れ目なく、びっしりと画面上に書かれることで、母と娘の「関係」の濃密さが浮かび上がるのである。

その会話を目で追うと、その生々しさから「母親」が「生きている」様子が蘇る。
絵画の中に母親は生きており、鑑賞者はその存在を身近に感じることになる。
これは確かに生の「記録」なのだが、「会話」のみのためか「生」そのもののような錯覚を覚えた。

左手壁面手前には、天井の高さまでびっしりと、ノート大のドローイングが無数に貼られている。
水彩であったり鉛筆であったり、着色されていたり線描のみであったり、様々な図像の小さな画面の集積である。

人物と認められるものは母親を描いたことがわかるが、ほとんど抽象画のように色面のみの画面もある。
自分には、抽象画面の色の鮮やかさと母親の図像の間に、なにかズレのようなものを感じた。
なぜ抽象になったのかが腑に落ちないせいかもしれない。

入口側の壁には、「明るい部屋」と題された映像が映されている。
主のいないベッドの周りにイスなどが置かれている。
明るい室内はぽかーんとして、虚脱感が漂う。
絵画の濃密さと対照的な空虚が画面を覆っている。
絵画の濃密な「生」の存在感の強烈さが、喪失感をより強いものにする。

最初の訪問時はパフォーマンスを観なかったため、絵画の圧倒的な「生」が強く印象付けられた。
同時に、あの絵画の前に正面の映像はいかにも弱い感じが残った。
この時点では、個人の経験、特に死にまつわる事柄を、一般化する事の困難さを考えていた。作品は作家という個人(グループの場合もあるが)が制作する。
制作動機はそれぞれだと思うが、個人の経験、嗜好から逃れることはできない。
一方、美術作品として発表する以上、全ての人は無理にしても多くの人が共有できなければならないだろう。

パフォーマンスの映像は、「母親」の「生」及び「死」ではなく、
普遍的な視点からとらえ直した「生」であり「死」なのだが、
その意図はわかるものの自分には強く迫ってくるものに感じられなかった。朝日新聞の展評の大野左紀子氏の言葉を借りれば、作家は「喪の作業」を終え、それを客観的に見つめパフォーマンスへと結実させているのだが、こちらは喪があけないままといった感じである。
ゆえに、パフォーマンス映像が心に入ってこなかったのではないかと思う。

一度目の訪問は以上のような印象であった。
「作品」にする難しさというのは制作一般に共通の問題としてあると思うが、やはりパフォーマンスを観ずにそう結論付けるのは誠実さを欠くと考え再訪することにした。

結論を先に書けば、パフォーマンスを観てやっと一つの展示が閉じたように感じられた。
パフォーマンスによって、「生」や「死」や「見つめる」ことが、
作家のものではなく自分の問題として迫ってくる。
また、そうした「投げかけ」がすっとこちらに入ってきた。

パフォーマンスが始まる少し前に会場に入った時、イスの位置が前と大きく異なることに気が付いた。
前回はほとんど左端で、一人分(前日分)のパフォーマンス映像が角に来ていた。
つまり、毎日行われ右端まで進んで行って、戻ったところだったのだ。

今回は中央に近く、数日前からのパフォーマンスが徐々に薄くなっていっているのが明確だった。
そして、イスの位置がこれから行われる当日のパフォーマンスのためにずれているということも、その時やっと理解したのであった。

パフォーマンスの前に観客が入らないように目印の紐が置かれた。
毎日撮影し次の日にはそれを投影するため、人が写りこんでは成り立たないということだろう。
しかし、このため観客はやや遠目からしか観ることができない。手のひらの上の氷が解けてゆく様を間近に見たいと思っていたのだが、それができないもどかしさを感じた。

その「もどかしさ」は、人の死を前にした「もどかしさ」とつながるのかもしれない。

腕をまっすぐ伸ばしたまま、じっと氷を見つめる。
氷が溶け切るのは意外と時間がかかり、その姿勢を保つのはかなりきついだろう。
それは想像がつくものの、氷の冷たさを実感することはできない。

死に向かう人とそれを看取る人。氷を見つめる人とそれを見守るひと。
いくつもの人と人との関係が、「生」と「死」を巡って絡まりあう。
正直まだ自分の中ではこんがらがったままだ。

この展示を消化するにはまだまだ時間がかかるだろう。
ただ、自分なりに受け取るべきものは受け取ったように思う。
やっと喪が明けたような気分になれた。

一度目と二度目の大きな違いは、やはり生身の人間(パフォーマー)の存在だろう。
その存在感が絵画の「生」を上回ることで、概念的な所作が血肉を得たように思う。

生きている人間で「死」を経験した人はいない。つまりは「死」というのは残された者の所有物なのだろう。

この先確実に訪れる自分の「死」を一体どれだけの人がどんな深さで所有するだろうかと考えると、いささかの心細さとうら寂しさを感じてしまうのだった。

 

展覧会情報

・常設企画展 POSITION 2017

「河村るみ 介-生と死のあいだ」

・会場:名古屋市美術館 常設展示室3

・日時:~2月26日(日)

・開館時間:9時30分~午後5時 金曜日は午後8時まで開館

Pocket
LINEで送る

The following two tabs change content below.
海牛目

海牛目

海牛目(かいぎゅうもく)  ただの美術愛好家  放し飼いと家畜の狭間にtwitterを回遊  展示周りも基本狭間のみ 作り手でもなくコレクターでもなく、自他ともに認める「観るだけの人」 体力の無さには自信あり
海牛目

最新記事 by 海牛目 (全て見る)