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竹森千晴個展 「酒屋の隅のタケモリの店」 訪問報告

gallery MIKAWAYAさんで開かれている竹森千晴さんの展示を観てきましたので報告します。

今回の展示は「お店」がコンセプトであることと展示作品が県芸サテライトギャラリーの時のものと重複するため、訪問の報告と前回展示の際の自分のツイートを採録することにします。

名鉄「須ヶ口」から歩いて五分程度の酒屋さんの隣に展示スペースが設けられています。画廊的な建物ではなく「酒」の看板を探してゆく方が確実にたどり着けそうです。

スペースはさほど広くはないため、壁面に路上観察の写真と空き缶作品、クラフトペーパーをつなげた縞鉄板の型取り作品が展示されています。

前回強い印象を受けた金継ぎ黒カラーコーン作品が、ひっくり返した酒屋の箱の上に乗せられているのが酒屋さんの隣らしさを感じさせます。

天井から吊り下げられている、木で作られた傘の骨が新作のようです。この作品は、柄が折れ、骨も一、二本無くなっており、明らかに打ち捨てられていたものをモチーフにしています。

この作品の材料は、コンビニでもらえる割り箸だそうで、よく見ると細かく継いだり重ね合わせたりして、実物大の傘の骨が再現されています。

先に記した黒いカラーコーン作品と空き缶作品については、以前の自分のツイートを転記させていただきます。

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なかでも黒のカラーコーンの作品は非常に強い存在感を放っていた。
全体が黒色を呈し、割れた個所を貼り合わせるために金色のテープが用いられている。黒と金の組み合わせは日本画の画面を思わせもするが、軽々しい印象のカラーコーンが重厚なモノに変貌している。

実物は赤いコーンがガムテープなどで補修されていたものだろう。
自分もこのような物体は目にしていると思うが、気に留めることはなかった。

割れたカラーコーンは補修することで役割を維持させられる。その場当たり的な補修の様が作家の目に留まったのかもしれない。
だが、自分は補修された赤いコーンと、作家の手による黒い金継のカラーコーンの間に「存在」の強さの差を観るのである。

なぜ「存在」にこだわるかというと、補修されたカラーコーンは路上に置かれている限りにおいては本来の役割を果たしている。
そこでは「機能」がそのモノの存在意義となる。
では件のカラーコーンを展示室に持ってきたらどうなるか?

カラーコーンは何の役に立つわけでもなくそこに立つことになる。
役割を奪われたor役割から解放されたモノはただそこにある状態、いわば「存在」だけが露わにされる。
「写真作品」ではコーンは文脈の中にあり、展示室に置かれるのとは全く異なる。

では黒いコーンの存在の強さはどこから来るのか?
補修テープが金色ということで、カラーコーンに不相応な贅沢感を出しているのは確かである。
だが、どうもそういった仕掛けというか意味づけによるものではない、モノそのものの強さのように思える。

素材の質感は、紙を固めたもののような風合いでプラスチックより親しみを感じる。
なんといっても黒という色が重厚感を醸し出している。
先にも記した金色も、黒との組み合わせで映えてみえる。
だがまだナニカが抜け落ちている気がしてならない。

ただ少なくとも、コーンにもたらされた「存在」の強さが「作家の制作行為」によるものであるのは確かだと思う。

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一目瞭然なのだが、ジュースなどの飲み物の空缶がぺしゃんこになった様を呈している。
車に轢かれ道路に落ちている物体そのままの形である。ただし、元がなんの飲み物だったのかは判別できない。
表面は路上のそれとは異なり、ぴかぴか光り輝いている。
つぶれた空缶の表面を塗っているのか、形のみを引き写し新たに作られたのかは不明である。

元の缶としての形は全く留めていないが、これらのモノからは悲壮感やみすぼらしさは感じられない。
それは、表面を綺麗にしてあるためかもしれないが、それだけではなさそうだ。
存在の主張がこの物体からは強く放たれている。

この作品から思い浮かべたのは、「ど根性ガエル」である。
ただしピョン吉はTシャツに貼りついてもカエルの様態を保っているが、こちらは元の缶の形は全く留めていない。
だが「どっこい生きてる」といった逞しさが、この空缶作品からは感じられるのだ。缶としての形をなくし立体物から平面になっても、いまや何の役にも立たないモノと化しても、
なお生きていると感じさせるのは何故だろうか?
ぺしゃんこになっても以前と同様に保たれている「なにか」を、自分はこのモノに観ている。

そもそも「存在」とは何で規定されるのだろうか?
例えば自分もこの缶のように車に轢かれ、顔や体がぐちゃぐちゃになってしまったとしても、生きている限り自分は自分だと主張し続けるだろう。自分の存在はけして外見によるものでは無い。
また、怪我によって全く仕事ができず、いや自身の世話さえ困難になったとしても、
それでも自分は「存在」していることを主張するだろう。
役割も「存在」の核ではない。

「存在」についてあれこれ考えてはみたものの、すんなり答えが出る相手ではない。
うんうんと頭を悩ませるのも、それはそれで楽しいのだがきりがない。
とりあえず空缶作品から自分は、「全てのモノはこの世にただあるだけで尊い」と思うに至った。考えというよりもはや信仰のようなもので、なんの根拠もない。
ただ、ぺしゃんこの空缶も確かにこの世界にいて、
なにかそれがかけがえのないもののように感じられるのだ。

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以上が、前回の展示の際のツイートです。

自分の感想でも読み返すのは気恥ずかしいものがありますが、基本的な印象は変わっていないので再録しました。

 

前回は会場での販売ができなかったこともあるのか、今回はすべて売り物の「お店」がウリです。

受付の横には「タケモリ・ガチャ」まで用意されています。このガチャガチャの台紙も結構手が込んでいます。

ゴミでしかない折れた傘の骨を、割り箸で再現するのもかなりの労力に思えます。

真面目なのかふざけているのか判らない展示物達と、そこに注がれる情熱の熱さの不釣り合いが、無意味な行為の「純粋さ」を際立たせるように思います。

週末限定特価のこのお店、一度訪れてみてはいかがでしょうか?


◎展示情報

【展覧会名】

「酒屋の隅のタケモリの店」

【開催日時】

8/20~9/10の土、日、月のみオープン

13:00 -19:00

【会場】

gallery MIKAWAKA

清須市須ヶ口2248

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海牛目(かいぎゅうもく)  ただの美術愛好家  放し飼いと家畜の狭間にtwitterを回遊  展示周りも基本狭間のみ 作り手でもなくコレクターでもなく、自他ともに認める「観るだけの人」 体力の無さには自信あり
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