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ファン・デ・ナゴヤ 「What is reality?」 感想レポート

 

 

例年は年明け1月に開かれることが多いファンデナゴヤ美術展が、今年度は12月に開かれました。
年度で区切れば昨年度なのですが1月にも開催されたため、2017年に二回あるとちょっと変な感じです。

お屠蘇気分を吹き飛ばすのにちょうど良いタイミングで開かれていた展覧会ですが、今回はあわただしい年の瀬でこちらもちょっと落ち着いて観られなかったような気がしました。

展示は三つの企画が行われていましたが、今回はその中の「What is reality?」を取り上げてレポートします。

会期はすでに昨年中に終了していますので、多少時間が経過した時点での感想ということになりますが、
まずは展示を観た直後のTWを再掲させていただきます。(手抜きではありませんよ…汗)

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展示は鈴木一太郎の個展の様相。
ピクセルで表現された彫刻が中心になるが、そもそもそうした表現に至った「彫刻のrealityとは?」というところから展開されている。
実はタネリで観た時には絵画の人だと思った。

レリーフ作品や彫刻作品がドット絵で表された作品は、その表面を強く意識させたからである。
今回の問題意識も、ダビデ像などの古今の彫刻も観る側にはイメージでしかないのでは?というのは、絵画で取り上げられる事が多い印象。

しかしジャンル分けは大した意味はない。
手に触れたり持ち上げたりできるわけではない以上、彫刻も絵画も突き詰めれば、視覚で捉え脳内で作られるイメージでしかないといえるだろう。
もちろん、それはマイナスの面だけではない。

極東の島国に暮らしながら、ロヒンギャのことを思い、エルサレムのことを憂う、それをいかに身近に、realityをもって感じることができるか?というのも、人間に必要な力ではなかろうか?

いささか脱線したが、この展示は彫刻に加え、映像、ゲームなどを交え、realityのありかとともに、realityと呼んでいるものに焦点を当てている。

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この時は作家の鈴木さんに伺った話が非常に印象的だったため、一足飛びに「想像」の力に帰着しています。
しかし急ぎすぎるとロクなことはありません。ここは一旦引き返してみる必要がありそうです。

さて年が明けしばらく経って改めて展覧会を振り返ってみると、一番引っかかったのは「What is reality?」というタイトルです。

日本はおろか名古屋からもめったに出ない自分にとって、英語はなじみのある言葉ではありません。
もちろん雑誌やTV、ネットなど生活の多くの場面では英語も当たり前のように使われており、今更言挙げする事もないかもしれません。

ただし「reality」という言葉に関してはこの展示の企画と直結するだけに、少しだけツッコミを入れておきます。

「リアリティ」というのは実に胡散臭い言葉です。というか、日本人向けに書かれた文章の中に登場するカタカナ語はなべてある種の胡散臭さを伴っているような気がします。

今回はアルファベットで記されているため「カタカナ語」とはまた若干意味合いが違いますが、共通するところも多いので以下は「リアリティ」で話を進めます。

おおよそ「カタカナ語」のまずいのは、その示すところがはっきりしないまま、発する側は「なにか言ったような気になり」、また受け取った側も「なにかわかったような気になる」のですが、実際には双方の思い描いているものが見事にズレていることが少なくないところです。
そんなわけで、胡散臭い横文字言葉に出会ったらその中身を少し慎重に見て行った方が良いように思います。

さて、この企画は「リアリティ」を主題に据えていますが、では個々の作品はどんな「リアリティ」と関わっているでしょう?

展示のいくつかに立ち返って、作品から浮かび上がるものを確認してみたいと思います。

入ってすぐの壁に貼られた写真群は、海外の美術館内の展示であったり日常の風景に犬のマスコットが写し込まれています。
このマスコットが挿入されることによって、「自分は確かにこの時この場にいた」ことの証明となります。
それらの記録は、自分の存在の「確かさ」を都度確認する作業のようです。
写真の集積は、その人が生きた日々と行動の証とも言えるでしょう。

 

写真や映像でしか会ったことのないことのない(実在する)犬がドットで表現された立体は、非常に(おそらく実物よりも)大きく、立体としての実在感に対し、表層はドットという粗い外観しか持っていません。
この差はやはり直接触れ合ったことがないために生まれたのでしょうか?
作家の心の内に占める、写真や映像などの「情報」によって形作られた「犬」の大きさが、そのまま立体の大きさや存在感に現れているようです。しかしそれは実在する「犬」とは見た目もサイズも違ってきています。

確かにどっしりと存在しているのに細部を欠いた犬は、「現実」の犬とはかけ離れていながら「確かな」存在感を持っています。
作家にとっては心の中の「犬」こそが「確かな」ものなのかもしれません。

どうやら「現実」と「確か」さは必ずしも一致しないようです。

また、犬が好きなのに犬アレルギーで直接触れ合うことができないというもどかしさを抱える作者にとって、この作品は単なる「情報」と「現実」のズレ以上に「切実な」ものであるように感じられます。

 

二部屋に分かれた展示では、手前の部屋にゲーム機が置かれています。鑑賞者はゲームをすることで展示を「疑似体験」することができます。ゲームに興じることで隣の部屋の展示を「実物」より先んじて体験できてしまいます。

作家のゲーム体験はポケモンからだそうですが、自分はファミコンのドラクエを思い出して懐かしくなりました。
今となっては懐かしさを感じさせる粗いドットで作られた「疑似展示室」は、次の部屋の展示を初めてみたときの印象を陳腐化させるほどの緻密さは持っていません。

 

これは鈴木作品のダビデ像の、「実際には見たことがない」けれども「知っている」有名な美術作品と同じ構造を作り出しています。

有名な美術作品ほど、実際に観る以前に図版などの「情報」で見知っている事は多いでしょう。
では実際に作品と接した際にはどのように感じるでしょうか?
抱いていた印象と同じで安心したり、あるいは思っていたよりもショボく感じたり、やっぱり「ホンモノ」は違うと感心したり、反応は様々だと思いますが、実作を前にして既に頭の中にある「作品」と比べる作業にいそしむことにはなるだろうと思います。

鈴木作品はいまや古臭く感じられるドット絵が用いられているため、「ホンモノ」の優位性を謳っているように感じますが、最新のCG技術やVRであったらどうでしょう?

技術は年々進歩してゆきます、疑似体験に対する「ホンモノ」の優位は実は危ういところまできているのかもしれません。

作品はあえて過去のドット絵を用いることで、将来の可能性までも視野に入れているように思えます。

 

しかし、そもそも「ホンモノ」のダビデ像もいかに活き活きとして観えようとも、人体を「模倣」した物質にすぎません。
美術という視覚芸術はもともと頭の中の「確かさ」を信じることで成り立ってきたのかもしれません。

 

今回の展示は「What is reality?」というタイトルがいささか大雑把ではありますが、彫刻あるいは美術を成り立たせている「確かさ」から、その人固有の「大切な」ものまでを、「現実」とのズレの間に探っています。

とはいえ、この展示が重要なものになるか否かも、作品が問いかける「?」を観る人それぞれがどれだけ「切実に」感じるかによって変わってくるのではないかと思いました。

 

 

静かな展示会場を後にして外に出ると、終わろうとする時代を名に冠したグループのコンサートに向かう大勢の人の波に飲まれてしまいました。
奇妙な気分に包まれてボーっと歩いていたら、すれ違う人の荷物が足に当たりました。
大した衝撃ではありませんでしたが、その確かな「感触」によって一気に現実に引き戻されたのでした。

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◎展示情報

【展覧会名】
ファン・デ・ナゴヤ美術展「what is reality?」

【会場】
名古屋市民ギャラリー矢田
第2-3展示室

【開催日時】
2017.12.7(木)~27(水)9:30~19:00

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海牛目(かいぎゅうもく) ただの美術愛好家  社畜と家畜の狭間にtwitterを回遊  展示周りも基本狭間のみ 作り手でもなくコレクターでもなく、自他ともに認める「観るだけの人」 体力の無さには自信あり
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